以下、この瞑想法の考え方の僕なりの理解ですが、
人間が抱く苦悩の原因は「嫌悪」と「渇望」
というのがまず根本の思想としてあります。
人間は、自分にとって「悪い」ものを嫌悪し、
「良い」ものを渇望します。
そして「嫌悪」という感情を抱いたとき、
その「嫌悪」という感情をも嫌悪し、
「渇望」という感情が満たされたとき、
さらなる「渇望」を求めてしまいます。
このように、「嫌悪」と「渇望」という
苦悩のループから抜け出せないのです。
さて、人間が「嫌悪」や「渇望」という感情、
つまり精神的な反応をする際、
体の仕組みとして、意識的であれ無意識的であれ、
身体的な感覚を伴います。
気付きやすいところで言うと、呼吸の乱れ。
そして、気付きにくいところで言うと、
五感(あるいは六感)の微妙な乱れ。
「嫌悪」と「渇望」という苦悩が生じたとき、
前述のように、それに反応していては、
苦悩のループから抜け出せません。
だから、ヴィパッサナー瞑想法では、
呼吸や感覚をただただ「観察」するのです。
「嫌悪」や「渇望」という苦悩や、
それに対応する呼吸や感覚の乱れという身体感覚を
「嫌だな」とか「気持ちいいな」と評価せずに、
ただ「呼吸が乱れているな」や
「膝に痛みがあるな」「頬に痒みがあるな」と
客観的に、事実をありのままに、観察します。
そういった身体感覚は、
ずっとあり続けるものではなく、
長かろうが短かろうが、いずれ消え去ります。
そのように、感覚に反応せずに、
感覚が存在することや消えていくことを
ただ観察することによって、
「嫌悪」や「渇望」という苦悩も同時に消えていく
という考え方のようです。
(繰り返しますが、あくまで僕の理解です)
(その3に続く)
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